2022-05-22 問題は名付けられ、細分化される
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複雑なこと、細かいことを見ている人の世界は、それを見ることのできない人には(当然)見えないから、それを見えない人に説明することがほとんど困難だ。
枝の先にある問題を、どんどん細分化してもっと細い枝に分類してそこで議論している人に、元凶はそこではなくもっと遠いところ、もっと根源的な部分にあるんだと話しても、俯瞰して見てもらうことはなかなか難しい。根治治療をしないで枝先を右か左かに分けてそこだけ切り落として、また隣の枝と取っ組み合っている。それをなすすべもなく見ているしかできない。そんな風にどんどん問題を名付け、細分化しても分断が深まるだけだ。
カテゴライズすることが問題の根源にあるのに、持ち上がった問題に懸命に名を付けて、それをいつまでも手放さない。
名前や道具はあくまでも最初の手すりであるから、最初は、または緊急事態にはそれを使って一呼吸つける場所までたどりつくのも良いが、自分のちからでものが見えるようになってきたら、手すりは徐々に離してゆくべきだ。
でもみんな、手早くゴールに辿り着くためのその手段をいつまでも手放さず、しがみつこうとする。だから自分自身がつかえるものになってゆかない。からだも、あたまも、臨機応変にその瞬間に対応するものになってゆけない。道具や言葉を増やすことで成り立たすことしかできなくなってしまう。だからいつまで経ってもひとりで立っている実感がなく心細い。
いつまでも細かいルールが必要だし、人との差異にばかり目が向く。
自分が世界の中で責任ある立場なのだと自覚しようとしない。いつまでも、もう渦中にないはずなのに、自分の傷に戻ろうとする。ほんとうに渦中にいるひとを違う場所に導けるはずなのに。それができる力を貯められるのは自分だけなのに。